2011年4月5日火曜日

鎌倉の大仏も被災者?

奈良の大仏は、お堂の中に坐っていらっしゃるのに、鎌倉の大仏は、空の下、何故お堂(大仏殿)の中に納められていないのか、なんとなく不思議で、それが鎌倉の大仏の特徴かとも思っていた。
特に、冬の青空をバックに鎮座している姿は、無宗教の俗人ですら感じ入ってしまう。

それが、実は、お堂の中に納められていて、500年以上前の東海地震で起きた津波によって、お堂が流され、現在の姿になったのだと聞くと今更ながらに仰天してしまう。
標高20メートルを駆け上がって大仏殿を破壊した地震と津波の規模を、3月11日に起きた東北大震災から推測しても、当時としては、相当の規模だったに違いない。

地震の発生した年については、、『鎌倉大日記』は明応4年(1495年)とするが、『塔寺八幡宮長帳』などの他の史料からは、明応7年(1498年)が正しいと考証されている。
一方、室町時代の禅僧・万里集九の『梅花無尽蔵』によると、文明18年(1486年)、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている(高徳院 Wikipediaより)

現在、神奈川・鎌倉市の津波ハザードマップでは、最大7メートルの津波を想定、静岡・沼津市の津波ハザードマップでは、最大10メートルの津波を想定しているそうだ。
しかし、鎌倉大仏の被災の歴史を知ったとき、その想定が妥当と言えるのだろうか。
あるいは、現実に地震が発生し、津波が起きた場合に、想定外と言えるのだろうか。

3月11日の地震が発生した当時、オフィスで勤務していたが、当時オフィス内に流れたアナウンスは、「当ビルは、関東大震災級の地震にも耐えられる作りになっているので安全です」というもの。
技術者や政治家が想定する範囲は、せいぜい関東大震災級の地震ではなかろうか。
あるいは、最近で考えれば、阪神・淡路大震災であろう。
そうして、決まって、関東大震災規模の1.x倍にも耐えられる作りだとかいう。
しかし、日本の歴史は、2000年以上ある。文献もかなり残っていて、また、歴史考証も進んでいる。
いまこそ、過去を振り返り、今一度現在の、地震、津波などに対する備えを見直すときだろうと思う。

温故知新、まさに日本の歴史の再認識が将来の道しるべとなる。

参考:
津波災害は繰り返す (平成13年6月30日発行、東北大学広報誌 まなびの杜№16より)
仙台平野を襲った津波が800年から1100年の周期で再来すると予測。
貞観津波が、3代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)に記録されていることから、1969年以降いつ起きてもおかしくないと予測。


5年前に指摘されていた福島原発「津波」への無力(プレジデントロイターより)