2011年12月30日金曜日

棒ノ嶺から大洗・かあちゃんの店へ

2011年12月23日と24日に立て続けに秩父の棒ノ嶺、茨城県の大洗にあるかあちゃんの店に出掛けた。
棒ノ嶺は地元の岳友会の仲間と二人で、今年最後の山行ということで山と温泉、そして日本蕎麦を堪能した。
標高が1000メートルにも満たない山なので馬鹿にしていたが、結構きつく、そして快晴ではあったが、風が吹いていて汗をかいていたので寒さが体にこたえた。
冬の山行は油断がならない。
しかし山頂はほぼ360度の眺望であり、遠くスカイツリーも見える視界であった。


続いて、クリスマスイブということで、夫婦二人で大洗のかあちゃんの店へドライブ。
ここは、ことしの2月26日に訪問しており、なかなか新鮮な魚が食べられるお店という印象だった。折からの震災でここも被害を受けたというニュースが流れていた。
もちろん、気仙沼や石巻ほどではないにしろ、直前に訪問した地がその後どうなっているか見たかったということもある。
行ってみたら、前より立派に復活していた。
以前に食べたメニューに「とうちゃん御膳」や「かあちゃん御膳」などが加わり人気があるようだった。


結構、テレビ局や芸能人も来ているようで壁には色紙が沢山貼り付けてあった。
大洗に来たらおすすめのお店でもある。

2011年12月18日日曜日

平松市長の退任の日

大阪市長の平松氏は今日で大阪市長を退任する。1期4年の任期であった。
12月19日からは橋下新市長になる。
12月16日が退任のセレモニーだったそうだ。要は送別会。
金曜日が送別会で土日を挟んで月曜日に新市長に引き継ぎは、ある意味でスムースな流れ。
自分の場合は、木曜日に送別会で金曜日に何事もなく出社し、さらに翌週の月曜日に出て、火曜日の出社で終わるというのは間が持たない。変な感じ。
まあ、それでも退職後の年金や保険などの諸手続、会社の退職にあたっての手続きなどを終え、一段落であり不平はない。
いろいろあったが、とりあえずは、満員電車に揺られてストレスフルで毎日の出社から直に解放されるのはありがたい。
イギリス単身赴任の3年間は車通勤であったので他人から風邪の菌をもらうこともなく、過ごせたが帰国してからは、満員電車の中での他人の咳を避けようもなく、何回となく風邪を引いた。
おそらく、これからはそれもないだろう。ストレスフリーだ。ありがたい!

だからといって、満員電車で毎日痛勤しているサラリーマンを馬鹿にしているわけではない。
日本の勤労者はリスペクトされるべきだ。結構なストレスの中頑張っている。
先だって、オリンパスのバブル期の多額の損失を隠すための粉飾を行っていた経営陣が新聞を賑わせた。調査にあたった、第三者委員会は、「悪い意味での、サラリーマン根性の集大成」と表現した。
「経営陣が腐っている」とも揶揄された。
そうなるとまじめに技術開発に取り組んでいる開発者までもが腐ったサラリーマンと思われるが、幸いなことにオリンパスの場合は、そこは腐っていないらしい。経営側のみだ。
リスペクトされるサラリーマンは、中間管理層以下の人々だろう。
経営に携わるにつれ、腐っていくようだ。

ストレスフルの全国のサラリーマン諸氏にはこれからも頑張ってほしい。
「24時間戦えますか?」、そんな広告があったのが懐かしい。

2011年12月6日火曜日

12月8日とは?

猪瀬直樹東京都副知事のツィッターにリプライする形で「「昭和16年12月8日に何事があったのでしょうか?御教示下さい。」とあった。
氏は、冷静に、「戦後の学校教育に欠陥があったということですね。」と返信されていた。
こういう時代になってしまったということか。

氏の著書、昭和16年夏の敗戦によれば、戦前、総力戦研究所という組織で、日米がもし戦ったらどうなるかというシュミレーションをし上層部へ具申した。
シュミレーションの結果は、敗戦確実というものだったが、結果は、ねじ曲げられ、軍機構と内閣という二者の対立する組織で意思決定もままならず、ずるずると真珠湾攻撃を開始した。
東条英機は、A級戦犯として12月23日の当時の皇太子(現、明仁天皇)の誕生日に処刑され、暗黙にこの日を日本人の意識化に植え付けようとされた(ジミーの誕生日 アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」 )。

ここで重要なのは、有り体にいえば、なあなあで負けが明白な戦争に突入していったということ。
なぜ明白な負け戦に突入せざるを得なかったのか。単に、軍部の暴走が原因とはいえない。
軍部の内部組織、内閣及び官僚組織、そして重要なマスメディア(新聞等)、これらがどのような役割を演じて負け戦に突入していったのか。考えるべき点は多々ある。

2011年3月11日、三陸沖を震源としたM9.0の東北大震災が起きた。
震災は、未曾有の津波を引き起こし、東京電力の福島第一原発でレベル7の大事故を起こした。
1000年に一度と呼ばれる地震だそうだ。「想定外」という言葉が流行った。

日本は災害の国であり、この災害と向き合い、共生しなければ生きていけない。
大小種類の差はあれ、災害は起きる。しかし、問題は、どう向き合い、どう共生するかということだ。

口先だけの鳩山内閣が1年で倒れ、思いつき発言の菅内閣も1年で倒れ、今度は、どじょう内閣だ。
被災者をどう救援するかは、もちろん最初の優先事項だ。
しかし、災害と共生する国作りはどうするのか。
原発はトイレのないマンションと呼ばれるが、それが分かっていて原発を推進してきたはず。
原発推進し、核燃料廃棄物をどうするか検討はされてきた筈であり、問題提起もされてきた筈であろう。しかし、推進派を止めることはできなかった。
原発停止の現在、電力危機をどう乗り切り、そして今後どうしていくのか。
電力7社の地域独占体制。周波数問題。自然エネルギーと取り入れなどなど。

これらは新しい国作り、変革のチャンスであるはずだが、ころころ変わる内閣、現状を維持するしかない官僚機構、バラエティ化したマスメディア、これらが渾然とし、千載一遇の変革チャンスを失いかけている。あるいは消失したか。
そうして、また、なんとなく、落ちるところへ行き着くという事態になりつつある。
あの、日米開戦と同じ事がまた起きつつある。

12月8日は、日米開戦の日だが、それだけではなく、(戦争を思いとどまり、ねばり強く交渉すべき)チャンスを生かすことができなかった反省すべき日なのである。
同様に、3月11日が単に東北大震災の日となるのではなく、ピンチをチャンスに生かすことが出来た日として後生に残る日にしなければならないのである。
そうでなければ、12月8日に続き、3月11日もピンチをチャンスに生かすことができなかった反省すべき日としてしか残らないことになってしまう。
二万人近くが犠牲になり、原発事故では広範囲に、しかも半世紀以上影響を及ぼす事態になっているにも関わらず・・・