その修復作業は遅々として進まない。さらに悪いことに、福島原発から放出されたと見られる放射性物質が首都圏に及んできた。
東京都の金町浄水場から乳児向けの暫定規制値を超える放射性ヨウ素131が検出されたのである。
この為、人々は、スーパーやコンビニに押し寄せ、ミネラル・ウォーターを買い占め、結果、これらが店頭から姿を消した。
さらに、福島県や茨城県の農産物や牛乳も出荷制限され、政府は「危険ではないが出荷を自粛してほしい」と奇妙な要請をし、おかげで福島産や茨城産の農畜産物がすべて売れなくなった。
メディアは、正しく伝えているだろうが、しかし、他のリスク(BSEや口蹄疫、タバコによる肺癌など)との比較など無しに、ただ単に恐怖をあおり、読者の関心をあおる手法が正しいのだろうか。
本記事は、そのような観点でメディアへの警鐘となる。
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こういう騒ぎは初めてではなく、客観的にみてリスクがゼロに近いBSEや口蹄疫のときも起こった。放射能も、多くの科学者が説明しているように、いま首都圏の水や野菜から検出されている程度ではまったく健康に影響しない。
しかし人々はリスクをゼロにしようと買い占めに走り、食べられる食物を拒否する。その結果、大量の食品が無駄になり、大きな社会的コストが発生する。
このような過剰セキュリティを生む主犯は、マスメディアの過剰報道である。
ニュース価値は、出来事の絶対的な重要性ではなく相対的な稀少性で決まるので、ありふれた大きなリスクより珍しい小さなリスクが報道される。男性の半分はガンにかかり、3人に1人はガンで死ぬ。その最大の原因はタバコで、男性の場合はガンによる死因の40%をしめる。しかしタバコで毎年10万人以上が死んでも、ニュースにはならない。
タバコによる肺ガンで死ぬ人をニュースで取り上げていたら、紙面はそれだけで埋まってしまう。
メディアは読者に読んでもらわなければならないのだから、原発やダイオキシンのような珍しい(小さな)リスクを大きく扱うのは合理的だ。
行動経済学の言葉でいうと、メディアは必然的に代表性バイアス(特殊なサンプルを代表とみなす傾向)をもっているのである。
もちろん放射能のリスクはゼロではない。厳密にいえば、どんな微量の放射線でも遺伝子がごくわずか破壊されるので、発ガン性はゼロではない。日常的にわれわれの浴びている放射線や健康診断で浴びるX線、あるいは飛行機で浴びる宇宙線のリスクもゼロではない。しかしリスクをゼロにしようと思えば、どんな食物も口にしないで防護服をかぶって家に閉じこもるしかない。問題はリスクをゼロにすることではなく、リスクとそれを避けるコストを客観的に比較して最小限のリスクを負担することである。
そのためにはリスクと経済性の客観的な評価が必要だが、すべての情報を片寄りなく認識することは不可能だから、なんらかのバイアスは避けられない。問題はメディアがバイアスをもっていることではなく、情報が少数の媒体に独占され、十分多様なバイアスがないことである。だから必要なのは政府が被害を過小評価して「大本営発表」することではなく、ありのままに発表して多くのメディアが相互にチェックすることだ。
したがって新聞やテレビのように読者の関心を引きつける必要のない非営利のネットメディアが、バイアスを中立化する上で重要な役割を果たす。今回も科学者がブログで客観的データを提供し、ツイッターでも「放射能に騒ぎすぎだ」という意見が圧倒的だ。「福島原発はチェルノブイリになる」と恐怖をあおった広瀬隆氏は批判を浴びてメディアから消え、科学的根拠なしに「放射能がくる」という特集を組んだAERAは、激しい批判を浴びて謝罪文を掲載した。
これはかつてメディアで「反原発」や「放射能が恐い」といった恐怖をあおる記事が圧倒的だったのと対照的である。
売るために特殊なリスクを誇大に伝えるマスメディアのバイアスを普通の市民のインターネットが打ち消したとすれば、日本社会も成熟したのかもしれない。
これは今回の災害の中で、数少ないよいニュースである。
(Newsweek 2011年03月24日記事より引用)