もちろん、発端は、11月10日、海上保安庁の職員が問題となった映像をユーチューブに投稿したと名乗り出たことである。
このことにより、この問題は新たな局面を迎えているが、国民の知る権利はどうあるべきか、国家はどこまで情報を秘密にしておけるかが今回の問題の最も大切な論点であると氏は主張している。
さらに、尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事故は日中関係だけでなく、国家と情報のあり方にも問題を投げかけているということも。
国家公務員法:
公務員が職務上知り得た秘密については、国家公務員法100条1項で、「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後といえども同様とする。」と規定されており、罰則規定としては、違反した場合は、「一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。」(109条12号)とされている。
公務員は様々な「情報」に接しながら仕事をしている。
その「情報」が外部に知られると、行政の円滑な運営ができなくなったり、他国との信頼関係が損なわれたりする事態を招いてしまうのだから、公務員法は職員が職務上知り得た「情報」を漏らしてはならないと定めているのは当然ともいえる。
秘密の種類:
では、どのようなものが「秘密情報」になるのだろうか。
企業では、多くの人に知られたくない、見られたくない書類、情報には、「社外秘」「部外秘」「取扱注意」などの押印が押され、管理されている。
しかし、押印されればすべて「秘密」になるのかという点で、法律上、解釈の違いが出てくる。
押印された情報、書類が全て「秘密」とする考え方(形式秘)、秘密とされる中身によると解釈する考え方(実質秘)とがある。
裁判所の解釈は、後者の実質秘を採用しているようだ(最決昭和52年12月19日刑集31巻7号1053頁「脱税虎の巻事件」)。
「形式秘」の考え方によれば、役所がとにかく「秘密」だと判断すれば、客観的に秘密にしておく意味や必要性がなくても、何が秘密なのかは役所が決めることとなり、ある種の情報隠しや情報操作とほとんど変わらなくなってしまう。
そこで、裁判所は秘密に指定された情報が本当に秘密にしておかなければならないのかどうかを判断する解釈(実質秘)を採用している。
---引用ここから---
尖閣諸島沖中国漁船衝突事故ビデオの「秘密性」
では、尖閣諸島沖で起きた事故の記録ビデオは、秘密といえるのだろうか。ビデオをYouTubeに投稿することは、守秘義務違反になるのだろうか。ここでは、このビデオがまだ知られていない情報にあたるかどうかがポイントとなる。
たしかに、ビデオそのものは一般的に知られていない情報であるとも言える。
なぜなら、これを見た者は一部の国会議員に限定されていたからである。
しかし同時に、ビデオの内容は国民すべてが知る情報でもあった。尖閣諸島沖で何が起きたのか、誰が誰に衝突したのか――ビデオを見たことはないが、ビデオの内容はみんなが知っている。これを現段階で「秘密」にしておかなければならない必要性はあるのだろうか。
もしも「秘密と言えば秘密だ」と主張するのであれば、それは「形式秘」の考えと変わらなくなる。
次に、このビデオを秘密にしておく必要性があるか否かが問題になる。政府は当初より、「該当のビデオは刑事裁判に使う証拠であるから公開しない」と主張していた。
しかし、衝突してきた中国漁船の船長は早々に釈放され中国に帰っている。
今更日本に呼び戻し、改めて起訴するとの情報はない。刑事裁判は放棄されたのだから、政府の主張は通用しない。
では、他にどのような理由があるのだろうか。
考えられるのは、このビデオが明らかになることによって国民の間で反中国感情が高まり、日中関係に亀裂が入ることへの危惧である。
もちろん、外交関係は重要であるし、隣国との友好関係は国家の重要な利益である。
しかし、そのような利益は情報を隠すことで実現できるのだろうか。
国民の反応を心配して情報を見せたり見せなかったりすることは、民主国家のあり方としてはあまりに問題が多すぎる。
一国のあり方や外交関係について最終的に判断するのは主権者である国民以外にない。
国民には「知る権利」がある。
表現行為がもたらす影響を心配して表現を規制することを「情報伝達的側面に着目した規制」(communicative impact restriction)と呼ぶ。
これは表現内容を理由として規制をかけるのと変わらない。
民主国家としては手を染めてはいけない規制の一種である。
今回の事件は、わが国が民主国家として存続できるかどうかの試金石である。一公務員の守秘義務違反の問題として矮小化することは慎みたい。
---引用ここまで---
こうなると、今回のビデオ映像を公開しないことは、戦時中の大本営発表のような、情報操作であるような気がしてならない。
一国民として事の推移を自らのこととして注視していきたい。