茅ヶ岳に登った。
相方は、前々日にカツ丼を食べ、2キロも太ったと騒いでいる山ボーイである。
「二人で行けば、2トン(豚)トラックだ」などと洒落ている。
この山は、随筆家で登山家でもあった、「日本百名山」で有名な、深田久弥氏の終焉の山である。
68歳、山頂直下で脳卒中のために亡くなったそうだ。その場所には、『深田久弥先生終焉の地』と表記された石碑が立っている。木造の古い柱の横に頑丈そうな石碑があり、お賽銭も幾ばくか置いてある。
茅ヶ岳を次の山行の山に選んだのは、おきゅうさんが、「茅ヶ岳に登りました」といって、山頂の写真を送ってきたことがきっかけである。
ちょうどそのときは伊豆ガ岳を登り、下った付近で岳友会の仲間と昼食を食べていたときだった。
「友人が茅ヶ岳(ちがたけ)に登ったと云って写真を送ってきた」と岳友会のリーダに話をしたら、「それは茅ヶ岳(かやがたけ)だろう」といって笑われた。まあ、山経験3年だから、名前を知らない山がまだ、たくさんあっても仕方がない。
それにしても、巨大な串焼き団子のような形状で、「1704m 茅ヶ岳」と書いてある山頂の標識の横で得意満面でポーズを取っているおきゅうさんの写真を見ると、いつかは自分もその頂上に身を置いてみたいと思ったのは確かだ。
おきゅうさんの写真を見たのは昨年の11月だから半年たって漸く登山に至るわけである。
茅ヶ岳は、茅ヶ岳の山頂と隣にある金ヶ岳の2つのピークからなり、山容が八ヶ岳に似ているところから「にせやつ」とも呼ばれているのは登山の本に書かれているとおりである。
腹のでっぷりとした山ボーイ2名を載せた2トントラック、いや乗用車は、中央高速を飛ばし、午前8時前に深田公園前の駐車場に着く。
登山者の朝は早い。駐車場には、すでに10台以上の車が駐車してある。
そそくさと出発したいところだが、中高年は入念な準備体操とストレッチが安全な登山の為には必要である。
それ以上ストレッチすると靱帯が伸びきってしまうだろうと思われる頃に漸く頂上へ向かって出発! 時計の針は、8時を回った。
茅ヶ岳の頂上までのポイントは、3つある。
最初は、舗装された林道。2番目は、女岩。最後に深田久弥先生終焉の地の石碑である。
登山路を横切る林道までは、緩やかな登り。つらくはないが、石がゴロゴロしている。林道を横切ると登山路らしくなってくる。そして、駐車場から1時間ほど歩くと漸く女岩にたどり着く。
ここは水源地であり、コップが5~6個置いてある。飲むとまろやかでおいしい。
ここまでは、森林の中の登山路であり景色は期待できない。
女岩からは、東の崖をジグザグに登って行く。
後で聞いたところ、おきゅうさんは、ここで足を滑らせ滑落し、木にぶつかって止まった。しかし、肩を打撲し、いまだに後遺症に悩まされている。女岩からメールすると、「その辺に、めがねと登山用のストックが落ちてなかった?」などとメールをしてきた。やれやれ、懲りない人だ。
女岩からは更に斜度がきつくなってくる。後ろで相棒のカツ丼ボーイのふうふうという声の大きさがいや増してくる。
上を見上げると、もう少しで尾根に出る様子。「もう少しで尾根に出るから、あとひと息、頑張ろう」「ひいふう」。
いちおう了解という意味のひいふうだろう。だいたいどの山でも頂上付近の登山路は、登山者の体重に挑戦するようにきつくなるものである。
ようやく尾根にたどりつくと、「おや、こんなところに!」と声が出るところに終焉の地の石碑が建っている。
いままでの森林の中から抜け、そこは、視界が開けた場所で、石碑にはふさわしい穏やかな場所である。
中高年の山ボーイにとっては、ようやくの休憩場所、汗をぬぐい、水分補給のポイントでもある。
故深田久弥先生に登山の安全を祈願し、再度登山開始。
女岩から約1時間で頂上に立つ。360度の眺望である。近くは金ヶ岳、遠くは、金峰山、富士山、南アルプス、八ヶ岳が眺望できる。
1時間程の休憩を取り、その間にお約束の頂上の写真を何枚か取る。頂上には同様の中高年が何組かいる。あるいは小学生低学年の子供を連れた父親など、見ていてもほほえましい。
帰りは、登りの登攀路と平行にある尾根伝いの下山路を降りる。トータル5時間ちょっとのタイムであった。
帰りは、韮崎にある白山温泉につかる。「やはり、中高年の登山は、温泉付きでなきゃだめだ」。持論である。
ここの温泉からは、茅ヶ岳が眺望できるということで、相棒の山ボーイが選んでくれた。
「あんたは、えらい! ところで今回の茅ヶ岳登山で何キロ減った?」「あまり変わりなし。」
結構、汗もかいたし、エネルギーも消費したと思うのだが、相方は、余程のエネルギー効率がいいらしい。
「こっちは、いつものように2キロ減ったよ。」 自慢げにそう言ったが、突き出た腹は、もっと減らすべきだとおおいに主張しているのは云うまでもない。
かくして、次の減量、いや、山行に向け、プランを検討し始める中高年2人であった。