2010年11月26日金曜日

国を憂うる

11月25日は、40年前に、三島由紀夫が、東京の防衛省敷地内にある陸上自衛隊東部方面総監部の総監室に立てこもり最後は割腹自殺した日である。
当時の総監室は、バルコニーと共に市ケ谷記念館として保存されている。

また、市ヶ谷記念館には、終戦後に極東国際軍事裁判(東京裁判)法廷となった旧陸軍士官学校大講堂も復元・保存しているので昭和の戦い・軍史などをみることができる。

バルコニーに出た三島由起夫は、自衛官約千人を集めさせ、「日本を骨抜きにした憲法に体をぶつけて死ぬ奴は、いないのか」などの檄文をまいて演説したそうだ。
翻って、尖閣諸島の中国漁船の領海侵犯事件、北方領土へのロシア大統領訪問、韓国哨戒艦沈没事件、韓国への北朝鮮からの砲撃など、日本を取り巻く国々との問題は平和ぼけしている一般人ですらこのままでいいのかという思いに駆られる。

当時の中曽根康弘防衛庁長官は、「常軌を逸した行動」とコメントしたそうだが、現在の多くの日本人は、北朝鮮、中国、ロシアといった国々の行動が「常軌を逸して」いると感じていると云うのは言い過ぎだろうか。
韓国は、北朝鮮の砲撃に対して即応できなかったため、国防大臣を更迭した。
日本は、デフレで苦しむ国民を無視して、政治家は、方言をした大臣の罷免だ問責決議だと騒いでいる。
戦略、戦術を駆使して国を引っ張っていく事が必要とされる我が国の総理大臣は、どこか頼りなさげに見える。
もし、三島由紀夫が生きながらえていたとしたら、当時の自殺があまりにも空しいことに気がつくはずだと思う。
なぜなら、今日本が置かれている状況は、40年前よりはるかにひどく、愚かな政治家がはるかに多いから。









2010年11月17日水曜日

Right StuffかLight Stuffか

最近の総理大臣や国務大臣の言動をみると以前読んだTom Wolfeの小説の題名(Right Stuff)を思い出さざるを得ない。
Right Stuffとは、「正しい資質(をもった人々)」という意味である。本の中では、「NASAのマーキュリー計画(宇宙に人間を送り出す国家プロジェクト)を背景に、戦闘機パイロットが「ライトスタッフ(己にしかない正しい資質)」に従い孤独な挑戦を続ける姿と、国家の重圧に耐えながら信頼の絆を深め合う宇宙飛行士と家族の姿とを対比」して描かれている。
翻って、日本の最近の総理大臣をみると、果たして、Right Stuffといえるのだろうか。
あるいは、Right Stuffを持った総理なのだろうか。

日本では、内閣が総辞職した場合、又は内閣総理大臣が欠けた場合、日本国憲法第67条の規定により、国会において文民である国会議員から内閣総理大臣を選出しなければならないとされているが、そのプロセスはいささか複雑である。
実際には衆議院で過半数をとった政党の党首がなることになる(衆議院の議決が優越されるため)。

この政党の党首を選出するプロセスが、日本の最高権力者である総理大臣を選出するのに、適切であるかどうかかが問題である。
選挙で過半数をとった政党なので、その政党に属する議員の過半数によって選ばれれば間接的に民意が反映された総理だと算術的に考えればいえなくもない。
しかし、議員以外の党費を払って加入した一部の一般民間人も投票するとなるとどうだろうか。
総理を選ぶというのに一部の民意しか反映されない、この不可思議なプロセスで選ばれた権力者は、妥当であるといえるだろうか。

また、党内で選挙の対象となる候補者も、最高権力を握り、国を動かすべく、正しい資質(Right Stuff)を持った議員といえるのだろうか。
他国との交渉力、大臣をコントロールする制御力、他党との交渉力、メディアとの接し方など評価のポイントはいろいろとあるだろうが正しく評価されて候補者になり選抜されて来ているのだろうか。

これらの自問自答的な質問に対して、おそらく多くの人が、Noということだろうと思う。
やはり、討論会などを通して、候補者の「正しい資質(Right Stuff)」をあぶり出し、Right Stuffを有したと思われる候補者を国民投票で選抜する仕組みが必要とされる時代ではないかと思う。

ちなみに、ころころ自分の主張が豹変したり、あきらかに批判されるような軽い言動をする総理大臣、国務大臣などは、Light Stuff(軽い人々)と呼ばれ揶揄されるのは当然だろう。

日本の総理大臣、国務大臣には、過去にもましてRight Stuffが要求されている。


Right Stuff : 正しい資質。1979年に出版されたTom Wolfeの小説の題名でも有名。
Light Stuff : 軽い人々

2010年11月16日火曜日

「守秘義務違反の秘密」とは何か

「守秘義務違反の秘密」とは何かとうことに対して中央大学法学部の橋本教授の興味深い記事を見つけたので紹介したい。

もちろん、発端は、11月10日、海上保安庁の職員が問題となった映像をユーチューブに投稿したと名乗り出たことである。
このことにより、この問題は新たな局面を迎えているが、国民の知る権利はどうあるべきか、国家はどこまで情報を秘密にしておけるかが今回の問題の最も大切な論点であると氏は主張している。
さらに、尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事故は日中関係だけでなく、国家と情報のあり方にも問題を投げかけているということも。

国家公務員法:
公務員が職務上知り得た秘密については、国家公務員法100条1項で、「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後といえども同様とする。」と規定されており、罰則規定としては、違反した場合は、「一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。」(109条12号)とされている。
公務員は様々な「情報」に接しながら仕事をしている。
その「情報」が外部に知られると、行政の円滑な運営ができなくなったり、他国との信頼関係が損なわれたりする事態を招いてしまうのだから、公務員法は職員が職務上知り得た「情報」を漏らしてはならないと定めているのは当然ともいえる。

秘密の種類:
では、どのようなものが「秘密情報」になるのだろうか。
企業では、多くの人に知られたくない、見られたくない書類、情報には、「社外秘」「部外秘」「取扱注意」などの押印が押され、管理されている。
しかし、押印されればすべて「秘密」になるのかという点で、法律上、解釈の違いが出てくる。
押印された情報、書類が全て「秘密」とする考え方(形式秘)、秘密とされる中身によると解釈する考え方(実質秘)とがある。
裁判所の解釈は、後者の実質秘を採用しているようだ(最決昭和52年12月19日刑集31巻7号1053頁「脱税虎の巻事件」)。
「形式秘」の考え方によれば、役所がとにかく「秘密」だと判断すれば、客観的に秘密にしておく意味や必要性がなくても、何が秘密なのかは役所が決めることとなり、ある種の情報隠しや情報操作とほとんど変わらなくなってしまう。
そこで、裁判所は秘密に指定された情報が本当に秘密にしておかなければならないのかどうかを判断する解釈(実質秘)を採用している。

---引用ここから---
尖閣諸島沖中国漁船衝突事故ビデオの「秘密性」
では、尖閣諸島沖で起きた事故の記録ビデオは、秘密といえるのだろうか。ビデオをYouTubeに投稿することは、守秘義務違反になるのだろうか。ここでは、このビデオがまだ知られていない情報にあたるかどうかがポイントとなる。
たしかに、ビデオそのものは一般的に知られていない情報であるとも言える。
なぜなら、これを見た者は一部の国会議員に限定されていたからである。
しかし同時に、ビデオの内容は国民すべてが知る情報でもあった。尖閣諸島沖で何が起きたのか、誰が誰に衝突したのか――ビデオを見たことはないが、ビデオの内容はみんなが知っている。これを現段階で「秘密」にしておかなければならない必要性はあるのだろうか。
もしも「秘密と言えば秘密だ」と主張するのであれば、それは「形式秘」の考えと変わらなくなる。

次に、このビデオを秘密にしておく必要性があるか否かが問題になる。政府は当初より、「該当のビデオは刑事裁判に使う証拠であるから公開しない」と主張していた。
しかし、衝突してきた中国漁船の船長は早々に釈放され中国に帰っている。
今更日本に呼び戻し、改めて起訴するとの情報はない。刑事裁判は放棄されたのだから、政府の主張は通用しない。

では、他にどのような理由があるのだろうか。
考えられるのは、このビデオが明らかになることによって国民の間で反中国感情が高まり、日中関係に亀裂が入ることへの危惧である。
もちろん、外交関係は重要であるし、隣国との友好関係は国家の重要な利益である。
しかし、そのような利益は情報を隠すことで実現できるのだろうか。
国民の反応を心配して情報を見せたり見せなかったりすることは、民主国家のあり方としてはあまりに問題が多すぎる。
一国のあり方や外交関係について最終的に判断するのは主権者である国民以外にない。
国民には「知る権利」がある。
表現行為がもたらす影響を心配して表現を規制することを「情報伝達的側面に着目した規制」(communicative impact restriction)と呼ぶ。
これは表現内容を理由として規制をかけるのと変わらない。
民主国家としては手を染めてはいけない規制の一種である。

今回の事件は、わが国が民主国家として存続できるかどうかの試金石である。一公務員の守秘義務違反の問題として矮小化することは慎みたい。
---引用ここまで---

こうなると、今回のビデオ映像を公開しないことは、戦時中の大本営発表のような、情報操作であるような気がしてならない。
一国民として事の推移を自らのこととして注視していきたい。